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title: 自由を絶対視しない立場から見た自由ソフトウェアの意義について
description: 自由ソフトウェアの機能性を行動分析学によって説明する文書です。
id: beyond-free-vs-nonfree
date: 2021-12-20 23:40
---
## はじめに

「自由ソフトウェア」という語を聞くと定義について調べるまでもなく、
「うさんくさいさなー」とか「どうでもよさそうだなー」とか思わないでしょうか?
これだけでそのように判断される理由は「自由」という語が含まれていることに起因すると考えています。

さて、自由とは何でしょうか?
だれしも人の行動が自由ではないことを知っています。
これを知らないものはおそらくいません。
また、だれしも人の行動が自由であることを知っています。
これを知らないものもおそらくいません。

不自由であり自由でもあるというのが素朴で一般的な認識でしょう。
このような自由という語にまつわる日常的な矛盾を抱えながらにして「自由ソフトウェア」の「自由」についてどう整理したらよいでしょうか?

「自由ソフトウェア」という語の定義は GNU
によってなされているので冒頭を引用します、詳細については引用元を参照してください。

> 「自由ソフトウェア」は利用者の自由とコミュニティを尊重するソフトウェアを意味します。
> おおよそで言うと、そのソフトウェアを、実行、コピー、配布、研究、変更、改良する自由を利用者が有することを意味します。ですから、「自由ソフトウェア」は自由の問題であり、値段の問題ではありません。この考え方を理解するには、「ビール飲み放題(free
> beer)」ではなく「言論の自由(free
> speech)」を考えてください。わたしたちは無償の意味ではないことを示すのに時々、「自由」を表すフランス語あるいはスペイン語の言葉を借りて「リブレソフトウェア」と呼びます。
>
> 自由ソフトウェアのコピーを手に入れるのにお金を払った方もいるかも知れませんし、
> コピーを無料で手に入れた方もいるでしょう。
> しかしどのようにしてご自分のコピーを手に入れたかには関係なく、
> あなたにはいつでもソフトウェアをコピーし変更する自由があるのです。
> その自由には、コピーを売る自由すら含まれます。
>
> わたしたちは、これらの自由のために運動します。
> なぜならすべての人がその自由に値するからです。
> これらの自由によって、利用者(個々人のみならず全体として)はプログラムとそのプログラムが利用者になすことを制御します。
> 利用者がプログラムを制御しないとき、わたしたちは、それを「不自由」あるいは「プロプライエタリ」のプログラムと呼びます。
> 不自由なプログラムは、その利用者を制御するでしょう。
> そして開発者がプログラムを制御します。これは、プログラムを不公正な力の道具とします。
> 「自由ソフトウェア」は利用者の自由とコミュニティを尊重するソフトウェアを意味します。
>
> [自由ソフトウェアとは? - GNUプロジェクト -
> フリーソフトウェアファウンデーション](https://www.gnu.org/philosophy/free-sw.ja.html)

さて、ソフトウェアの利用者が上記のような自由を有することに結局のところ何の価値があるのか。
引用元の文書を最初から最後まで読んでも
「倫理的なのは何故?」とか「不自由なプログラムは非倫理的なの?ってことは要は悪ってこと?」
といったように疑問に思う人が多いだろうと想定します(なお、上記の引用元の文書を読んで自由ソフトウェアの意義について、
納得し自由ソフトウェアに価値を感じた場合はここから先を読む必要はありません)。

利用者が自由であることが果たして倫理的なのかどうかといったことについて考え始めると路頭に迷うので、
それらを排除して GNU
の主張のうちの「不自由なプログラムは、その利用者を制御するでしょう」という一点のみに絞り、
自由と行動の制御について心理学の一分野である行動分析学の視点から考察し、結果的に(GNUの主張よりも限定的に)自由ソフトウェアの意義を導きます。

ただし、私自身は独学(真面目に考えると独学などということは原理的にありえないのですが)で行動分析学について学んだだけの門外漢であり、
行動分析学に関する記述の正確さを保証することはできないという点については注意してください。

## 何故「自由ソフトウェア」という語は空虚に響くのか

それは、実際には何も自由ではないとよく知っているからでしょう。
ゆえに「自由ソフトウェア」という語に含まれる「自由」になんら魅力もありません。
自由など成立し得ないと経験的に知っているがために自由に価値など感じえないのです。

しかし、同時に自由でないという考えに対しても否定すると思います。
いままさに「自由に行動している」と感じ、その感覚がそのまま事実であるとも考えるでしょう。
そして「自由に行動している」と感じるときその「自由であること」が良いことだと思うでしょう。

どうして、自由など成立し得ないことを知りながら、
自由を感じそして自由に価値があるなどと思うのでしょうか。

誰しも相反する経験を持ち、自由の不成立と成立を共に認めるのです。

### 不自由と感じる経験

もし、行動が何からも自由なのであればどうして教育が必要なのでしょう。
行動が何からも自由なのであれば教育など無意味です。
しかし、私達は教育がその後の行動に大きな影響を与えることを知っています。

もし、行動が何からも自由なのであればどうして法律が必要なのでしょう。
行動が何からも自由なのであれば法律など無意味です。
しかし、私達は法律によって行動を制御できることを知っています。

もし、行動が何からも自由なのであればどうして生まれによって行動の傾向に偏りが生じるのでしょうか。
行動が何からも自由なのであればそのようなことはありえません。
しかし、私達は経験的に生まれによって行動の傾向に差が生じることを知っています。

このように私達は自然と行動が自由でないということを知っています。
このことを知った上で次のように自由があるとも考えています。

### 自由と感じる経験

もし、自由がないのであれば自発的にコップを手に取りコーヒーを飲むということがありえるのでしょうか。
誰から命令されたわけでもなくコップを手に取りコーヒーを飲むということはいままさに起きています。
これを否定することなど誰にもできないでしょう。

もし、自由がないのであれば自発的に思考することなどありえるのでしょうか。
誰から命令されたわけでもなく思考するということはいままさに起きています。
これを否定することなど誰にもできないでしょう。

もし、自由がないのであれば自発的に「自由を絶対視しない立場から見た自由ソフトウェアの意義について」などという文書を書くことがありえるのでしょうか。
誰から命令されたわけでもなく「自由を絶対視しない立場から見た自由ソフトウェアの意義について」などという文書を書くことはいままさに起きています。
これを否定することなど誰にもできないでしょう。

このように、不自由であると感じる経験と同様に自由であると感じる経験も「いまこの瞬間」において起き続けているのです。
あなたはこの文書の続きを読むかここで読むのを止めるのかを選択する自由があるといまこの瞬間において感じることが可能です。

## 行動と環境の相互作用からみる「自由」

行動分析学では人の行動に「自由」など実際にはなかったのだと考えます。
しかし、それは実際にはなかったというだけであり「自由である」と感じることの可能性を否定したわけではありません。

むしろ、どういうときに「自由である」と感じられるかということこそが重要なのであり、
実際に「自由」があるかどうかというのは重要ではないのです。
「自由である」と感じられるときに使われる自由は自由の有無の問題ではありません。
「したいことをしている」と感じられているという意味における自由こそが重要です。
こういった意味における自由を感じて生きていける時間や頻度を増やすことは、
そのままメンタルヘルス的な意味で良い結果をもたらすと思いませんか?

行動分析学の祖である B.Fスキナー
は「幸福」について次のように説明しました。

> 罰からの逃避ないしは回避によってなにかをするときには、
> 我々はしなければならないことをするといいます。
> そして、そういったときには幸福であることはまずありません。
> その結果が正の強化をうけたことによってなにかをするときには、
> 我々はしたいことをするといいます。 そして、幸福を感じます。
> 幸福とは、正の強化子を手にしていることではなく、
> 正の強化子が結果としてもたらされたがゆえに行動することなのです。
>
> B.F.スキナー『罰なき社会』(p.95-96)
> <https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjba/5/2/5_KJ00001021402/_pdf>

スキナーは正の強化子を手にすること自体ではなく、
正の強化子が結果としてもたらされることによって制御された行動によって「したいことをする」と感じられ、
そのような状況を幸福だととらえたのです(なお、
「したいことをする」と感じられるような行動の制御が破滅的な結果を導くケースもあり、
そういった例外がないわけでもないことにも注意してください。
そのような状況においては問題行動とみなされ応用行動分析による介入が機能的でしょう。
身近な例としては一部のオンラインゲームにおけるガチャへの依存について考えると理解しやすいと思います)。

罰、正の強化、正の強化子の定義については本記事では荷が重すぎるため別の文献を参照してください。
行動分析学における行動の原理を学ぶ際には『行動分析学入門』(産業図書)を推奨します。
なお、本記事の文脈において行動分析学の専門用語の意味を正確に把握する必要はありません。

ここで重要なのは「したいことをする」と感じられるということ自体も、
行動の後続事象としての環境変化によって成立しているということです。

「したいことをする」と感じられることが重要なのであれば、そのような期間や頻度を増やしたいと思うでしょう。
そしてそれを実現するためには行動の制御が必要であり、
行動の制御のためには行動と環境との相互作用を利用せざるを得ません、そして実際に操作可能な対象は環境のみです。
行動を制御する対象としてみたとき行動そのものに対して介入することは不可能です。

もしも、行動と環境との間の相互作用を否定したらどうなるでしょうか?
行動に独立した自由が実在するため行動と環境の間には関係がないというような考えです。
その場合我々は行動を制御する一切の術を失います。
なぜなら、自身を含めたあらゆる個体に対してのはたらきかけは環境を通じてでしか不能だからです。
自由を実在視することはそのまま行動を制御するための自由を失うという破滅的な結果へと導きます。

幸運なことに行動分析学の研究の成果によりどうやら行動と環境が相互作用しているようであると分かっています。
これがそのまま「したいことをする」と感じるための実践的な方法を考えるために機能します。
行動が何からも自由でないということが、そのまま自由になるために必要なことなのです。

しかし「自由がない」ということを本質として考えるのもよくありません(自由を否定したときに自由意志などないと言い切ってしまいがちです)。
ありがたいことに我々は行動を制御する方法について獲得したのにもかかわらず、
全ては不自由だということにとらわれてしまえばそれ自体が行動制御の弊害となりえます。
このような状況を本末転倒と呼ぶのでしょう。
自由があるということもないし自由がないということでもないと、その程度の認識でいるのが妥当なところかと思います。

行動と環境が相互作用しているために環境をうまく操作することで、
「したいことをする」と感じられるような行動が自発的に生起するような環境を行動分析学の技法を用いて設定することが可能です。
自由が実在するかどうかよりも、どのようにしたら自由と感じられるかを考えた方が実生活においてより役に立つのではないでしょうか。

## ソフトウェアは利用者にとって環境である

さて、ソフトウェアは利用者にとっては常に環境側にあります。
利用者の行動によりデータが計算機に入力されてソフトウェアは計算を実行し結果をユーザーに出力します。
このとき行動と環境の相互作用をみると行動の前後の環境にソフトウェアが関係しています。

先ほど、行動を制御するには環境を操作する必要があると説明しました。
では、環境側であるソフトウェアが改変できないとしたらどうでしょうか?
それはそのまま人とソフトウェアの相互作用においては行動を制御できないことを意味します。
行動の制御によって「自由」を感じられるという文脈でみればこれは著しい問題といえるでしょう。

## ソフトウェアを改変することはあなたの行動を改変することである

先程述べたように、計算機を扱う文脈においてはソフトウェアはユーザーにとっての環境です。

ソフトウェアの挙動を改変することがそのままあなたの行動を改変することに繋がります。
ここまでに何度も述べてきましたが、
行動と環境は相互作用していて環境を操作することでのみ行動を制御することができるわけですから、
ユーザーにとっての環境であるソフトウェアを改変するということは、
あなたの行動を改変するということに他なりません。

とはいえ、自分でソフトウェアを改変するのは難しいということもあるかもしれません。
そういうときにはプログラミングについて勉強するか、
ソフトウェアを改変するスキルを持つ人を探して依頼するのが良いでしょう。
相手との関係性によってはもしかしたらお金や時間がかかるかもしれませんが、
そういった場合にはそれだけのコストを支払う価値があるかどうかで判断すればよいでしょう。

ただし、その前提条件として自由ソフトウェアを利用していなければならないという点についてはよく覚えておいてください。
不自由なソフトウェアではあなたに合わせてソフトウェアを変更することはできません。

それは、あなたに合わせて環境を操作することができないということを意味し、
そのままあなたの行動の制御を困難にするということを意味しています。
(不自由なソフトウェアを配布する企業は多くの人にとって、もしくはその企業自身にとって都合の良いソフトウェアを作ってくれるかもしれませんが、
あなたにとって都合の良いソフトウェアを作ってくれるとは限りません)。

利用者とソフトウェアの関係において利用者の行動に問題が生じたとしましょう。
不自由なソフトウェアを利用していては、ソフトウェアの改変が事実上不可能なため行動の修正が困難になります。
利用者がソフトウェアを改良するという環境操作を通して自身の行動をよりよくしたいと考えたとしても同様です。
この場合も不自由なソフトウェアを利用していては環境操作が困難です。

よって、不自由なソフトウェアの利用はあなた自身の行動の制御を困難にする深刻な問題なのです。
自由ソフトウェアを選択して利用することが、
あなたを取り巻く環境を変更することを可能にし「したいことをする」と感じられるような行動を増やすことに繋がるでしょう。

ソフトウェアがあなたの行動を制御する以上、
ソフトウェアを制御できない立場に置かれてしまえば、
利用者の行動の制御も難しくなるということをよく理解していただければと思います。

## おわりに

多くの人は、「自由ソフトウェア」と聞くとなんとなくうさんくさいと思うでしょう。

それはそもそも不自由であるということを既に知っていて、
自由などということは実際にはあり得ないというこの世のありようについて気づいているからだと考えました。
しかし、そのような世界観でこそ自由ソフトウェアに意義があると行動分析学の知見を用いて示しました。

この文書が「自由ソフトウェア」の「自由」に対する印象を変えるものになれば幸いです。

## おまけ: 本記事における「行動」と「環境」についての重要な注意

本記事で述べている「行動」と「環境」は個体の外的なもののみでなく本人にしか分からない内的な事象(行動分析学の専門用語では「私的出来事」といいます)も含んでいることに注意してください。
たとえば、今のあなたの「思考」を分析の対象とするならばそれは私的出来事での行動です。
それに対してある別の行動を分析の対象としてみたときに先行するような「思考」は刺激であり私的出来事での事象であり環境の一部です。
また同様にある別の行動を分析の対象としてみたときに後続するような「思考」は刺激であり私的出来事での事象であり環境の一部です(これらの例示から、何を行動とみるかは恣意的に決定されることが分かります)。

行動と環境には外から観測可能なものと私的出来事の二種類あり、
行動分析学ではどちらも研究対象として同一の行動の原理(レスポンデント条件づけやオペラント条件づけ)が成立するとみなすことに注意してください。
このような立場を徹底的行動主義といいます。

なので「したいことをする」と感じること自体を分析対象とするならそれは「行動」です。
また、他の行動を分析対象としたときに「したいことをする」と感じるという事象が前後に出現するならそれは「環境」上での事象です。
これはとても重要なので注意してください。
よって、これから本文中に頻発する「したいことをする」と感じられるという事象は行動分析学の研究対象に含まれるものです。

本来であれば「したいことをする」と感じられるというような微妙な表現は避けたいと考えています。
しかし、正の強化について本文中で説明する余裕もないし適切に説明するのも困難なためこのような表現をしています。

## おまけ: 日本における「自由」という言葉の問題

日本では「自由」という言葉から価値を感じる人はあまりいないのではないかと考えています。
よって、「自由ソフトウェア」と言われてもその語だけ見てそれが何か良いものだと思うこともないだろうし、
「自由ソフトウェア」について調べようとも思わないでしょう。 英語の free
には「自由」の他に「無料」の意味を含んでいるというややこしさがありますが、
日本語の場合は厄介なことにそもそも「自由」という言葉に輝きがないのです。
よって利用者が自由であり支配を受けないから倫理的というようなことはこの日本では成立しないと思うのです。

そうなった要因ははっきりとは分からないのですが、
聖徳太子の時代から始めた大乗仏教による統治の影響が少なからずあるのではないかと考えています。
実際、現在使われている日本語の中にも仏教由来の語彙が大量にちりばめられています。

いまの日本でも葬式等で仏教と直接接触する機会があるし、
観光地としての寺で法話を聞くような状況も残っています。
こういったところでうけた教示が教育方針にまで伝搬することもいまだにありえますし、
かつての仏教的な教えが引き継がれているということもあるでしょう。

仏教的な世界観では絶対的な自己というような見方はせずにこの世のありかたを縁起という概念を使って説明します。
そういった背景を前提にすると「自由」は実在しえません。

「そもそも何からも自由なものなんてないのではないか、ゆえに利用者の自由を保証することに何の意味があるのか」
というような反論の前提の部分は何ら誤っていない自然なものと考えられ、
私自身そのような「何からも自由なものなどない」もしくは「何からも支配されていないものなどない」というような主張について同意せざるを得ず、
直接的に「自由」のみを擁護することはできません。

自由を求めて革命を起こした歴史を持つ国とそもそも哲学的に自由を遠ざけてきたような国では、
説明の仕方を変えた方がよいのではないかと思います。
もちろん、現代の日本ではある程度自由が重視されているかと思うのですが、
仏教的な影響が断絶されているとはいえないでしょう。

というわけで日本における「自由」の印象を考慮して自由を絶対視しない視点から
自由ソフトウェアを肯定する必要があるだろうと考えたのです。